二〇一五年六月
6月初旬、父が鹿児島の整形外科に入院した。
最近、足のしびれをうったえており、杖をつくような日々を送っていた。
誰でもそうだけど「最近、○○が痛いんだよねー」と会話になると「○○病院がよ
かよー。○○さんもそこに行って良くなって帰ってきたがー」と相手の事を思い紹
介をする。
実際、治る治らないは医者の腕、そして本人の気力が大切だと思う。
以前、葬儀で霊柩車を運転し、火葬場に向かう車内での話である。
助手席に乗った女性が故人の話をされだした。
「故人は、ある人からの紹介で○○病院に行ったけど、結果良くならず、手術をし
なければよかった。あの人が紹介したばかりにねー」と、濁したような話をされ
た。
前日、父から「○○さんは○○病院で手術したのだー」と何気ない会話を思い出
し、そう女性が言っているある人とは、父のことだと分かった。
正直、僕はその女性にすぐにでも反論したかった。
紹介する人は、苦しんでいる相手の事を思い紹介しただけなのに…。
たくさんある病院の中でその病院を選び、そして手術をしたのは本人とその家族な
んだと。
紹介しただけでその責任を追求されるのであれば、誰も紹介なんてしない。
紹介する人は医者でもないのに…。
ものすごく反論したかったけど、グッと我慢をした。
助手席の人が大切な人を亡くしたのは現実。
その大切な人を送る霊柩車の中で反論することは、仕事のプロとしては我慢し、知
らないふりして相槌をうつしかなかった。
今回、父が入院した事により、この話を言いたくなった。
だって、この病院を選び、そして手術をするのを決めたのは本人と家族の意思であ
るのだから…。
今、主のいなくなった家。
いつも座っていた場所がぽかりと空いている。
今、父に電話をすれば、電話を取り会話ができる。それだけでも安心ができ、そし
て、なんて幸せな事なんだろう…。
東京にいる孫たちが見舞いに帰ると電話をすれば、「大丈夫だから、もし帰ってくる
ならお盆の前に帰ってきて、お父さんたちを手伝ってやってくれ」と、入院しなが
らも、身体が動かせられなくても、家族の事を第一に考える父。
一日も早く元気になり、屋久島に帰ってきてほしいと、梅雨の続く屋久島で心から
願う。
二〇一五年七月
ひとりごとを毎月書き始めたのが7年前。
そして、本を発刊したのが2年前。
月日の流れは早いものです…
私は今では 44 歳になり、長男は 21 歳、二男は 19 歳。
二人とも東京に就職、七転八起しながら目標を胸に頑張っている。
三男は高一の時、心に大きな傷を負いながらも今は乗り越え、和食の道へと就職活
動中。
四男は中学三年となり、いくつかあった将来への道も今では一本となり、人生で初
めての大きな試練に立ち向かう。
そして私は最近老眼になり、いろんな事に歳を感じつつ、目標を持ち、一歩が半歩
になりながらも頑張っている毎日。
そんな中、第二部を発刊することとなった。
人は生きていく上で
たくさんの人と出会い
たくさんの言葉と出会う
そして、その時、その瞬間で
人は感じ、いろんな事を考える
私の本を読み、共感し送ってくれた言葉
「一つの言葉にキズついて
一つの言葉に後悔し
一つの言葉に気がついて
一つの言葉に励まされ
一つの言葉に涙ぐむ
そして、一つの
言葉で幸せになれた」
人との出会い、言葉との出会い
それは、人を育てる力になる
人に感謝、言葉に感謝
今ある命に感謝し、目標を持ち
限りある人生に挑戦していきます
二〇一五年八月
今年、今までにないくらい長かった梅雨。
一ヵ月間ずっと雨、晴れたと思ったらすぐにくずれ、パラパラと雨が降る毎日。洗
濯物は乾かない上に、家中カビだらけ。掃除をしても次の日には畳に雪が降ったよ
うなカビが生える日々。
そして、台風の到来をきっかけにやっと梅雨明けし、暑い夏が来た。ついこの前ま
でカビで苦労していたのが嘘のように大汗をかく毎日。
そして、もうお盆。
島外に住んでいる人達がたくさん帰ってきた。お店にも以前お世話になったご葬家
様たちがお花を買ったりしてお盆の準備に大忙し。島にいるのは年をとり一人残さ
れた親。子供達が声をかけてもやっぱり住み慣れた島に残り、ゆっくりとした時間
を過ごす。島外にいる子供達、孫達を気にかけながらも現実と向き合う親。そんな
孤独を感じる生活の中、お盆を迎える。大切な人との別れを、つい昨日まで日が沈
むと同じように静けさを受け入れていた毎日だった。一夜にして、一変して変わ
る。
子供達、そしてかわいい孫達を連れての里帰り。一人分しかなかった料理も机に並
びきれないほどの料理に変わる。たくさんの靴、たくさんの洗濯物、家中に響き渡
る笑い声。
今まで正月でも揃わなかった家族が、昔のように顔を合わせ、増えた家族の笑顔が
昔以上の幸せが食卓を包む。ただそこには一緒にいてほしいあなたがいない。祭壇
に飾られたいつものように微笑んでくれている一枚の写真。聞こえてくるいつもの
笑い声。思い出と一緒にまたあの日を思い出す。嬉しい反面、寂しさが増す。
ほんと、家族が揃うのは家族の命が消えた時かそう初盆の時だけだろう。それ以外
はやっぱりみんな生活があり、思っていても集まれないのが現実。そしてみんな忘
れる、いつも自分たちが倒れないように支えてくれている親がいる事。親はいつも
子供達の背中を見ている。子供はそんなことには気付かない。お盆も慌ただしく過
ぎていく。2、3日すると一人消え二人消え、そしてまた一人の夜を迎える。昨日
まであんなに明るく騒がしかった夜も、今は静けさが広がる…。仏間に微笑むあの
人も寂しそうに見える…。楽しい時間だった分だけ、一人になった時寂しさが増
す。
「またいつ会えるのだろうか、子供達、そして孫達に…」
子供達は、島外に帰れば忙しい毎日。子育てに仕事。
でも忘れないでほしい、島に残る親の事。心の一方通行だけにはなってほしくない
と思う、お盆の夜。
二〇一五年九月
八月、長男が里帰りした。
久しぶりに会った息子は、さらにたくましくなっていた。
そう、息子はもう 21 歳。
東京に行き、早いものでもう三年目を迎える。
顔つきや口調を聞いていると、俺に似てるなと思うところが多々ある。
違うのは、はりのある身体と、溢れ出る生き生きとした生命力を感じることだ。
今回は、祖父が入院していることもあり、長期の休みをもらい手伝いに帰ってき
た。
うちの会社も人手不足でもあり、免許を持ち、気兼ねなく使える息子はありがたか
った。
仕事の中で、息子と二人配達に行く時間も多かったし、その時間を大切にした。
息子は、城西高校の調理科を卒業後、東京のラーメン店に就職したが、アレルギー
が出て一年で辞めた。
今はコンビニで働き、生計を立てている。
親としては将来につながる仕事をしてほしいけど、息子本人が考え、働いているか
ら、それ以上の事は言えないし、また、仕事の中でこれだと光る何かを見つければ
いいかなとも思った。
そんなある日、息子が「俺、花屋になろうかと思う」との言葉。
本人の中では以前から弟に申し訳ないという気持ちがあったみたいだ。
中学時代、二男と跡継ぎの話になり、二男が跡継ぎとなり、長男本人は料理人の道
を行くと決めた。
二男は保育士になりたかった夢を諦めた。
親の引いたレールを進み、当然壁にぶつかり、悩んでる姿が兄としては申し訳なく
思っていた。
そして、一番の理由としては、自分自身、料理の世界では通用しないと悟ったの
だ。
そして俺は息子に言った。
お前が料理の道へ行きたいと城西高校に行き、そして東京に就職したけどだめだっ
た。
料理の道へと進み、挑戦して、自分には無理だとわかったのであれば無駄ではなか
ったし、そして、あきらめもついただろう。
でも今度、花屋の道へ進むのであれば、妥協は許されない、厳しい道。
弟は同じ道を進んでるわけだから、弟以上に努力し技術を身につけなければいけな
い。
もし妥協すれば、兄としてのメンツと信頼をなくすことになる。
それに、この道を進んだからといって、この数年後に技術を身につけ帰ってこれる
かわからない。
誰が跡継ぎとか社長とか、まだまだ先の話だ。
それに、そんな小さな話よりこの仕事をもとに兄弟でもっともっと視野を広げ、夢
を広げてほしい。
お父さんも兄弟がいればと思う事がよくあった。
自分にもしって事があった時、親に申し訳ないとよく考えていた。
それより、まず弟達に自分の気持ちを伝える事が一番大切だよ。
数日後、その話を聞いた三男がぼそっと言った。
「兄貴、何考えてるんだろうか」
弟からすれば、自分たちの人生の先輩である兄が仕事が定まっていない事、料理の
道から花屋の道へ変わった事が、同じ料理の道を目指している弟としては納得がい
なかなったんだろう。
現実にぶつかり、新たな道を模索中の兄。
これからの道に夢や希望がふくらみ、妥協が理解できない弟。
今、子供達は目標を持ち、歩み出し、大人になっていく姿が、親として、たくまし
く見え、うれしかった…。
人生何度でもやり直せる。
一度きりの人生。
さあ、一歩を踏み出そう。
私も 45 歳になりました。
もう 45 歳ではなく、まだ 45 歳の心で、夢を現実に変えていきたいです。
二〇一五年十月
命あるもの必ず死が訪れる。
たくさんの思い出を残し、一人旅立つ。
人間、生まれくる時は自分が泣き、死んでいく時はまわりの人達が泣く。
葬儀社ながら、死を迎えてから通夜葬儀への流れの早さに、正直戸惑うこともあ
る。
長い月日、一緒にいたのに、亡くなると一、二日でこの世から消える。
まわりの世の中は何も変わらない。
遺族は大切な人の死の別れに心の整理がつかないまま、夢のような話で時間だけが
過ぎていく。
最後の別れの数時間後には白骨となり、死を受け入れることになるのだ。
火葬場の仕事も大変である。
普通にできる仕事ではない。
その仕事人から、よく「できるだけ副葬品(花・衣類)など入れないでほしい。収
骨の際、分別が大変であり、お骨に色がついたりするから。大切な人だったからこ
そ、きれいな白骨にして遺してあげたいんだよね。」と指導される。
仕事を行っている現実の話。
遺族からすると、大切な人にたくさんの思い出を持たせたい、きれいにして送って
あげたいと最後の故人への感謝の気持ち。
その最後の願いと現実に挟まれる私達葬儀社…。
そんないろんな想いの中で仕事している私達に、「山野は入れる花をケチってる」と
か言う人達もいる。
ほんと、残念な話だ…。
一般会葬者でいるみたいだ。
また、一方では
葬儀には故人を偲びいろんな方からお花を頂く。その生花には送る人の思いがつま
っている。
斎場葬ではお別れの時、花を摘み、残りは束にして近い人達が持って帰る。
その方々は当然火葬場まで見送りに行っているので、その間に私達は花を束ねるの
だ。
すると、その束ねた花を選び、持って帰ろうとする会葬者がいる。
そこで、弊社がきっぱりお断りをすると、ぶちぶちと文句を言いながら帰っていく
のだ。
「何なんだろう、この人」と正直思う。
この花は大切な人を亡くしたご遺族様の花です。
縁深い火葬場に行っている人達のために残している花だからこそ、無断であげられ
ないのです。
その花を先に選び持って帰ろうとする姿で、せっかくのきれいな花がかすんで見え
てくる。
人間、欲のかたまり。
欲がなくなる時は命の終わりの時。
欲もさまざま。
健康な身体が欲しい。
そして一日でも元気で生きていきたいのも欲。
私もまだまだ欲のかたまりです。
でも、心の中には、欲に負けない思いやりの心だけはしっかりと持っていたいと思
います。
二〇一五年十一月
信じてくれますか。
「私、天文館に宿泊し、夜7時から午前3時 30 分まで勉強したんです」
この言葉を聞いた人達は、みんな「うそだな、ありえない」「わかった、途中で中抜
けして帰ってきたのが3時半だろ」とか疑う意見ばかり。
実は、少額短期保険募集人の試験を受けたのです。
これは、どのような事かというと、先の見えない世の中、自分の葬儀代は自分で準
備しなければいけない。
そこで、少額の保険料で、もしもに備える保険を取り扱うための試験です。
まず申し込み、TEL で「難しいですか」と問いかけると、「一般常識がわかる人なら
大丈夫です」との返答。
その一般常識に自信のない俺…。
分厚いテキストに問題集!!
あまり早くから勉強しても忘れそうなので、一週間前から始めた。
しかし、この一週間、仕事が続き、テスト勉強のできない日が続いた。
「あー、まじ、やべーな」勉強できない。
テキストを開いても、初めての分野で意味の分からない単語だらけ。
いつも「前向きの挑戦」と思っているけど、いざやる事になると、進まないページ
数。
そして、ついに試験前日。
勉強の場を、家ではすぐに自分に甘くなるので、鹿児島で一人きりで集中できる夜
を選んだ。
今回、初めての試験でもあるけど、何よりも、後に続く従業員に対しての建前上、
社長として必ず合格しなければいけないのだ。
楽しい天文館の夜を消し去るぐらいの大きなプレッシャーがあった。
まずは、4時に夕食を食べ、その後パチンコ店に行き、自分のささやかな欲求を解
消。
その後、コンビニにより飲物・食料を買い、ホテルに帰還。
机の上に全てを配置し、戦闘開始!!
思えば、子供のテスト勉強はいっしょにしたけど、自分の試験勉強は車の免許以来
だから 27 年ぶりになる。
問いを口に出し、解答を何度も繰り返した。
進まないテキストと反比例に過ぎていく時間。外ではみんな楽しそうな声、ホテル
の最上階ではキャバクラの姉さんの働き、動き回る足音。
そんな普通の生活では迷惑な音も、心をくすぐり
眠気予防になった。
時間だけが過ぎていく。
11 時過ぎ、「今からなら一軒呑みに行けるな」と思っても…動けない現実。
12 時過ぎ、「呑み屋は無理だけど、やきとり店に行きたいな」と終わらない現実。
2時過ぎ、いい気分でホテルに帰ってきたお客様の足音にドアの音。
うらやましい話だ…。
3時過ぎ、まわりも静けさに包まれながらも一人机に向かう、しらふの俺…。
「終わった…」と時間は3時半。試験勉強が終わったと同時に俺の天文館の夜も終
わりを告げた。
次の日、あっという間に朝を迎え、チェックアウトから昼すぎまでホテルのロビー
にて最終の復習チェック。
不安な要素を残しながらも一時からの試験に挑んだ。
「結果、100 点で合格」
やりました!!水泳の北島選手ではないけれど、「やべー気持ちいいー何もいえねー」
と喜びをかみしめた。
保険業者の方からすると、すごく簡単な試験なんだと思います。
確かに、受けてみると決して難しくはなかった…。
でも、自分にとっては未知の分野に挑戦した事。
一生懸命、その目標に努力した事がとてもうれしく心地よい達成感がそこにあっ
た。
これで、また一歩踏み出せる。
この一歩は俺一人の一歩ではなく、高齢者の将来の不安解消、安心につながる大き
な一歩になるだろう。
一歩を踏み出す事。
それは簡単なことではない。
努力が必要、そう目標に向かって頑張る事。
そうする事で、人間は輝けるんだと改めて感じた。
小さな一歩は、人生の大きな一歩にかわる。
島に帰り、合格通知書と 100 点の結果レポートを額に入れ、「俺はやった!!」と優越
感に浸った。
それから一週間後、従業員が試験を受け、100 点満点合格を決めた。合格はすごく嬉
しかった…けど、
満点を取ったことで、俺の満点の価値が下がり、一週間で額を下ろすことになった
…。
みんな、いろいろあるけど、がんばりましょう。
二〇一五年十二月
みなさん、早いものでもう年末ですね。
思えば今年は梅雨が長く、カビに悩まされた6月、夏から秋、あっという間に通り
過ぎ、もう 12 月なのにこの暖かさ。
気持ちもいまいちのらない中で正月を迎える。
そうそう、みなさん気づきましたか?宮之浦古橋のイルミネーション。
数年前までは町中イルミネーションが点灯していたのに、不景気のせいか、ほとん
ど見かけなくなった…そんな中で、今まで毎年有志の人達が少しずつお金を出し合
い、古橋にイルミネーションをつけ、クリスマス、正月と楽しませてくれていた。
去年からだが、そのイルミネーションが急ににぎやかになり、みんな、これを見た
時に
「わーすごいねーきれいだねー」とは思うだろうけど、誰がしたんだろうとは思わ
ない。
これ町が出資ではないのですよ。
屋久島電工さんが出資して、あの川風の寒い中、30 人ぐらいのヘルメットをかぶっ
た電工さんたちが飾りつけをしたのです。
ほんとなら、あの一部に社名を入れていいぐらいなのに、屋久島の自然、サイクリ
ングの紹介に徹している。
屋久島電工さんは昔からこの屋久島を支えてきた会社。確かに、町の中心街には今
でも降灰があったり工場の音が夜響いたりと、迷惑な事もある。この事は、これか
らも電工さんに対策をとってほしいのは確かだ。でも、それはそれとして、電工さ
んの町に対しての気持ちも理解し、感謝しなければいけない。
現在、いろんなイベント等に多額の寄付をいただいている。金額ではないが、私達
は、何だかんだ言いながらもしっかり寄付金をお願いし、電工さんはして当然と思
っているのではないだろうか。電工さんだけではない。町の中で道路のゴミ拾いを
している人達もいる。相手の事、町の事、誰かのために損得なしで行動できるかが
大切だと思う。そんな人達に対して、
「○○はして、あたりまえ。して当然」
正直、弊社もこの言葉でへこみ、悩み、悲しくなる事が多々あります。人間誰でも
そうなんですが、してもらう事が普通に変わり、「感謝の心」を忘れているのです。
最後に、旧NTT前にもイルミネーションがあります。今まで通り、町を元気づけ
たいと毎年出資している人達がいます。
出資の規模ではない、そこに町を思う、人を思う気持ちは同じであることを忘れて
はいけない。
父が鹿児島の整形外科に入院した。